みずちの前みずちの前闇の女霊脈譚
濃姫録

濃姫 ―― マムシの娘

濃姫(帰蝶)― 墨藍の打掛に蝶紋

あなたには、どうしても話の通じない相手がいる。

上司かもしれない。親かもしれない。同じ言葉を話しているのに、見ているものがまるで違う。

こちらの事情に、向こうははじめから関心がない。あなたが何を抱えているかより、あなたの肩書きや、まわりの評判のほうが、先に話を決めてしまう。

四百年以上前に、その何倍も理不尽な場所へ立たされた女性がいる。濃姫だ。

父は斎藤道三。油売りから身を起こして美濃一国を奪い取り、人々が「美濃のマムシ」と恐れた男。

その娘というだけで、濃姫は生まれたときから決めつけられていた。本人がまだ何者でもないうちに、世間の見方はもう決まっていた。

嫁ぎ先も、自分では決められない。送り込まれたのは、となりの国で「うつけ」と笑われていた若い当主、織田信長のところだった。

それでも、濃姫は取り乱さない。

父が「夫がうつけなら、これで刺せ」と短刀を持たせたとき、濃姫は「ならば、舅(しゅうと)さまを刺す刀になるやもしれませぬ」と返したと伝わる。

父にもつかず、夫にもつかず、どちらの駒にもならない。

この話が本当にあったかはわからない。ずっとあとの時代に書かれたものだ。それでも、濃姫という人の芯を、これより短く言い当てた言葉はない。

濃姫は、声を荒げて自分を通す人ではなかった。まわりの流れを読み、波風を立てず、それでいて、いちばん大事なものだけは誰にも渡さない。

強さには、何種類もある。大きな声で押し通す強さもあれば、静かに芯を抱えたまま、時代をくぐり抜ける強さもある。この国で古くから一目置かれてきたのは、後者のほうだ。

濃姫が何を考えていたのか、書き残したものは何もない。亡くなった年さえ、今もわかっていない。

それでいて、これほど語られないのに、誰ひとり彼女を「いなかった」とは思わない。

濃姫の生きた時代を描いた本は、いくつもある。

『濃姫孤愁』阿井景子(講談社文庫)
マムシの娘・帰蝶の生涯を、道三と信長のあいだに置かれた一人の女として描いた小説。記録の少ない濃姫の輪郭を、物語の側からたどる一冊。
この本をひらく ―

マムシの娘と呼ばれ、魔王の妻となり、最後まで誰の駒にもならなかった女が、たしかにそこにいた。

濃姫が読み解いた「流れ」は、彼女ひとりのものではない。自分では嫁ぐ相手も生まれる家も選べなかった戦国の女たちは、運命というものを、どう読み解いて生きたのか。

戦国の女たちは、運命をどう占ったか ―