みずちの前みずちの前闇の女霊脈譚
淀殿録

淀殿 ―― 誇りを捨てられなかった女

淀殿(茶々)― 深紅の打掛に牡丹、炎の記憶

あなたには、引くべきだと分かっていても、どうしても引けないものがある。

ここで折れれば楽になる。まわりも、そうしろと言う。それでも退けないのは、あなたが背負っているものを、その人たちは背負っていないからだ。

意地ではない。守ると決めたものが、あなたの側にだけある。

四百年以上前、その引けなさを一身に背負って、炎のなかで生涯を閉じた女性がいる。淀殿だ。

名を、茶々(ちゃちゃ)といった。織田信長の姪。母は、戦国一の美女とうたわれたお市。父は近江の浅井長政。

血筋だけを見れば、これほど恵まれた姫はいない。けれど、その血筋こそが、彼女の一生を三度、炎のなかへ突き落とすことになる。

四つのとき、父の城が焼けた。小谷(おだに)城が落ち、長政はみずから命を絶つ。茶々は、母と幼い妹たちとともに、炎のなかを生き延びた。

十四のとき、今度は母の城が焼けた。お市は二人目の夫とともに北ノ庄(きたのしょう)の城に残り、炎のなかへ消えた。

茶々は、また生き延びた。二度、いちばん近い者を炎に奪われて、それでも生き残ったのだ。

その茶々を側室に迎えたのは、羽柴秀吉だった。父と母を死へ追いやった側に立つ男である。

むごい巡り合わせのなかで、彼女は淀殿と呼ばれ、秀吉の子を産んだ。やがて世継ぎとなる秀頼(ひでより)をもうけ、豊臣の血を未来へつなぐただ一人の女となる。

秀吉が世を去ると、淀殿は幼い秀頼を抱え、傾いていく豊臣を一人で背負った。徳川家康が力を伸ばしていくなか、彼女は寺を建て、鐘を鋳(い)させ、ひたすら祈った。豊臣が末永く続くようにと。

ところが、その鐘に刻ませた文字を、家康は呪いだと言い立てた。「国家安康」の四字が、家康の名を断ち切る呪詛だという。

豊臣の祈りは、敵の手で呪いに読み替えられた。それがそのまま戦の口実となり、大坂城は炎に包まれていく。

三度目の炎を、淀殿は生き延びなかった。秀頼とともに城に残り、みずから幕を引いた。四十六ほどだった。

逃げる道はあったはずだ。頭を下げ、豊臣の誇りを捨てて生き延びる道も。けれど淀殿は、それだけは選ばなかった。母から受け継いだものを、最後まで手放さなかった。

悪女と呼ぶ声は、あとの世がつくったものにすぎない。彼女はただ、背負ったものを最後まで背負いきっただけだ。

選べない流れのなかで、それでも譲れないものを抱えて生きる。淀殿の一生は、母お市の生涯とそのまま重なっている。炎に始まり、炎に終わった。母から娘へ、運命は形を変えないまま受け継がれた。

誇りを捨てられなかった、というより、捨てなかった。三度の炎をくぐり、最後の炎のなかへ自分の意思で残った女が、たしかにそこにいた。

『淀どの日記』井上靖(角川文庫)
浅井の長女に生まれ、二度の落城を生き延び、父と母を死へ追いやった秀吉の側室となった茶々の生涯を描いた歴史小説。むごい巡り合わせのなかを生きた一人の女の内側を、物語の側からたどる一冊。
この本をひらく ―

炎に生まれ、炎に終わった。母から受け継いだその運命を、淀殿は最後まで自分のものとして引き受けた。

淀殿が最後まで捨てられなかった誇りも、三度くぐった炎も、彼女ひとりのものではない。母から娘へ受け継がれていく運命を、戦国の女たちは、どう読み解いて生きたのか。

戦国の女たちは、運命をどう占ったか ―