みずちの前みずちの前闇の女霊脈譚
仏教のことば

実は仏教から来た言葉5選 ―― 挨拶・旦那・億劫・有頂天・我慢

釈迦三尊像(メトロポリタン美術館)

朝の「おはよう」の挨拶。家の主人を呼ぶ「旦那」。面倒なときの「億劫」。

どれも毎日のように使う言葉だ。けれど、もとをたどると、どれも仏教にたどり着く。お寺の中で使われていた言葉が、長い時間をかけて、暮らしの言葉になった。

ここでは、元の意味から大きく変わった五つを選んだ。

1. 挨拶 ―― 相手の悟りの深さを確かめる言葉

挨拶(あいさつ)は、もともと禅の言葉だ。

禅宗では、師と修行僧が問答を交わし、相手の悟りがどこまで深いかを確かめた。これを「一挨一拶(いちあいいっさつ)」という。禅の書物『碧巌録(へきがんろく)』にも出てくる言葉である。

「挨」も「拶」も、もとは押す、迫るという意味の字だ。軽く声をかけるのではない。相手の心にぐっと踏み込んで、その深さを見る。それが挨拶だった。

そこから、人と人とが言葉を交わすこと全般を指すようになり、今の「おはよう」「こんにちは」になった。

毎朝のひとことも、本来は、相手の心に一歩ふみこむ行いだった。

2. 旦那 ―― 本来は「与える人」

旦那(だんな)は、古いインドの言葉、サンスクリット語の「ダーナ」に漢字の音をあてたものだ。

ダーナの意味は「与えること」。仏教では、お寺やお坊さんに施しをする「布施(ふせ)」を指す。

そこから、布施をする信者を「檀那(だんな)」と呼ぶようになった。お寺を支える家を「檀家(だんか)」と呼ぶのも、同じ「檀」の字である。

やがて檀那は、お金を出して人を支える立場の人、つまり商家の主人や家の主人を指すようになる。妻が夫を「旦那さん」と呼ぶのは、そのずっと先の話だ。

旦那とは、もともと「与える人」のことだった。

3. 億劫 ―― 気の遠くなるほど長い時間

億劫(おっくう)の「劫(こう)」は、仏教で使われる時間の単位だ。サンスクリット語の「カルパ」に漢字をあてたもので、とてつもなく長い時間をあらわす。

落語の「寿限無(じゅげむ)」に出てくる「五劫(ごこう)のすりきれ」の劫も、これである。

億劫は、その劫が一億。もとは「おくこう」「おっこう」と読み、気が遠くなるほど長い時間を指した。

あまりに長くかかりそうで、取りかかる気になれない。そこから「面倒だ」「気が進まない」という今の意味が生まれ、読み方も言いやすい「おっくう」になった。

4. 有頂天 ―― いちばん上でも、まだ悟りの手前

有頂天(うちょうてん)は、仏教の世界観に出てくる天の名前だ。

仏教では、迷いの中を生きるものの世界を、欲界(よくかい)・色界(しきかい)・無色界(むしきかい)の三つに分ける。これを三界(さんがい)という。有頂天は、その三界のいちばん上にある天である。

そこまでのぼりつめた状態から、「得意の絶頂」「うれしくて我を忘れる」という今の意味になった。

けれど、有頂天は仏の世界ではない。仏の世界は、三界のさらに外にある。有頂天は、いちばん上にありながら、まだ悟りの手前の場所だ。

のぼりつめたと思ったところが、まだ途中だった。仏教の地図の上では、有頂天はそういう場所にある。

5. 我慢 ―― もとは煩悩のひとつ

我慢(がまん)は、今では「耐える」「こらえる」という、どちらかといえばよい意味で使われる。けれど仏教では、もとは煩悩(ぼんのう)の名前だった。

仏教は、人の心をくもらせるおごりの心を「慢(まん)」と呼び、七つに分けて数える。我慢はそのひとつで、「自分」というものに強くこだわり、自分を高く見る心をいう。

自分を高く見るから、人に頭を下げられない。意地を張って、ゆずらない。そこから「強情を張る」という意味が生まれ、やがて「こらえる」「耐え忍ぶ」という今の意味に落ち着いた。

耐えることを美徳と教わってきた人ほど、この元の意味を知ると、少し肩の力が抜ける。

言葉の中に、仏教は今も生きている

五つとも、使っている人のほとんどは、仏教の言葉だと意識していない。

それでも、千年以上前にお寺の中で使われていた言葉が、今も毎日の会話のなかで生きている。意味は変わっても、言葉は残った。

知らないうちに、私たちは毎日、仏教の言葉で話している。

言葉だけではない。お宮参りに七五三、お葬式にお盆。日本の暮らしには、神社とお寺が当たり前のように入りこんでいる。その「当たり前」を数字で見ると、意外なことがわかる。

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画像:「釈迦三尊像」メトロポリタン美術館(CC0・Wikimedia Commons)